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灰になった妻は、遠い空の下で新しい愛を知る
結婚して5年。子どもは作らないと決めた星山和葉(ほしやま かずは)と星山暁人(ほしやま あきと)は、穏やかで満ち足りた日々を重ねてきた。 あの日、暁人から1本の電話がかかってくるまでは。 暁人が学費を援助してきた苦学生の菅沢舞来(すがさわ まき)が、身ごもったのだという。 暁人が使った避妊具から、ひそかに中身を採取したらしい。 「彼女とは、一度だって関係を持ったことはない。 本当は、堕ろさせるつもりだったんだ」 けれど実家の者たちは、死をほのめかしてまでその子を産ませろと譲らないのだという。 和葉は涙をにじませながら、その残酷な事実を受け入れた。 だが、その日を境に、何もかもが変わり始めた。
チャプター (1)
第1話
結婚して5年。子どもは作らないと決めた星山和葉(ほしやま かずは)と星山暁人(ほしやま あきと)は、穏やかで満ち足りた日々を重ねてきた。
あの日、暁人から1本の電話がかかってくるまでは。
暁人が学費を援助してきた苦学生の菅沢舞来(すがさわ まき)が、身ごもったのだという。
暁人が使った避妊具から、ひそかに中身を採取したらしい。
「彼女とは、一度だって関係を持ったことはない。
本当は、堕ろさせるつもりだったんだ」
けれど実家の者たちは、死をほのめかしてまでその子を産ませろと譲らないのだという。
和葉は涙をにじませながら、その残酷な事実を受け入れた。
だが、その日を境に、何もかもが変わり始めた。
第1話
子どもは好きじゃないと言っていたはずの暁人が、妊娠や出産の本を熱心に読み込み、舞来の妊婦健診には毎回付き添って、ベビールームまで心を込めて整えるようになった。
そして火事が起きたあの日も。暁人は迷うことなく舞来を抱き上げ、炎の中を駆け抜けていった。
「暁人――ッ!」
和葉はかすれた声で夫の名を叫んだ。けれどその声は、燃え盛る炎の轟音にかき消されていく。
「助けて……私、ここにいるの……」
暁人の足が、一瞬止まったように見えた。立ち込める黒煙の向こうで視線が交錯し、その瞳に明らかな躊躇いがよぎるのを、和葉は確かに見た。
だが次の瞬間、舞来が彼の手をぎゅっと握りしめた。
「星山社長、早く外に出ましょう?私、怖くて……」
「大丈夫だ」
暁人の声は、残酷なほど優しかった。
「俺がついてる。家族3人で、必ず無事に出られる」
家族3人。
その一言が鋭い刃となって、和葉の胸を深々と貫いた。
暁人が舞来をかばいながら玄関へ走り出したそのとき、燃えさかる梁がまた1本崩れ落ち、今度は和葉の背中を直撃した。
薄れゆく意識の中、彼女の脳裏をよぎったのは、5年前の事故だった。
ひどい雨の日だった。レストランを出たばかりのふたりに向かって、制御を失ったトラックが歩道へ突っ込んできた。和葉はほとんど本能で、暁人を突き飛ばしていた。
下腹部から全身へと激痛が広がり、暁人が喉も裂けんばかりに自分の名を呼ぶ悲痛な声が聞こえた。
目を覚ますと、医師から冷酷な宣告をされた。子宮の損傷がひどく、もう一生妊娠は望めない、と。
「別れよう」
退院の日、和葉は目を赤くして暁人に告げた。
「あなたは星山家の一人息子でしょう。跡継ぎが必要なはずよ」
あのとき、暁人はなんと答えたのだったか。
彼は和葉を病室の壁に押しつけ、息もできないほど激しく口づけた。
「和葉、俺はお前だけでいい!子どもがいないなら、ふたりで生きていけばいい!家のことは俺がなんとかする」
一族を説き伏せるため、暁人は本家の仏間で一昼夜正座を続け、家のしきたりに従って数えきれないほど竹刀で背中を打たれた。
母親は泣きながら嘆き、父親は怒りに任せて湯呑みを3つも叩き割った。
最後には祖父が深々とため息をつき、好きにしろと折れたのだった。
熱風の中、結婚式の日の光景がよみがえる。ベールを上げた暁人の目は、真っ赤に潤んでいた。
「和葉、俺が生涯愛するのはお前ひとりだ」
それなのに今、暁人は別の女を抱きかかえて「家族3人」と口にしている。
炎が、和葉の最後の意識を完全にのみ込んでいった。
わかった。それなら今度こそ、あなたたち「家族3人」の望みを、完全に叶えてあげる。
次に目を開けたとき、視界に映ったのは無機質な白い天井だった。
「……和葉、目が覚めたか」
すぐ横から暁人の声がした。顔を向けると、血走った目と深く寄せられた眉が見えた。
「まだ痛むか……?」
張り詰めた声でそう言いながら、暁人はそっと和葉の頬に触れた。
「軽いやけどと脳震盪だそうだ。でも心配いらない。フロアごと貸し切って、最高の医療チームを呼んである。絶対に傷跡など残させない……」
気遣うようなその眼差しを見つめているうちに、和葉はふと可笑しくなった。
火の海の中で迷わず「家族3人」を選んだ男が、今さら何を愛情深いふりをしているのだろう。
口を開くと、喉が焼けつくように痛んだ。
「暁人、私たち、離……」
「和葉」
暁人が不意に言葉を遮り、1枚の書類を差し出した。
「俺たち、離婚しよう」
和葉の全身がこわばった。
自分から切り出すつもりだったのに、まさか彼に先を越されるとは思ってもいなかった。
「といっても、あくまで一時的なものだ」
あらかじめ用意していたかのように、暁人は早口で続けた。
「舞来はあと1か月で出産する。生まれてくる子を嫡出子として届け出るには、実の両親が籍を入れていないといけないんだ。子どもが生まれたら、彼女とはすぐ離婚する。そうしたら俺たちはまた……」
「再婚するって?」
和葉は静かに言葉を返した。見えない手に、心臓をきつく握りつぶされるようだった。
「その通りだ!」
ほっとしたように、暁人の目が輝いた。
「彼女とはもう話がついてる。産んだら金を受け取って出ていく約束だ。子どもは……これから俺たちの子として育てよう。な?」
動き続ける彼の唇を見つめながら、和葉の体は芯から冷えていった。
「和葉?」
暁人が急かす。
「早くサインしてくれ。弁護士が手続きを待ってるんだ」
ペンを受け取る指先が震えた。
ペン先が紙に触れた瞬間、ひと粒の涙が「離婚」の二文字の上に落ち、じわりと滲んでいった。
暁人は気づかなかったらしい。
サインを済ませた書類をしまうと、身をかがめて額に口づけようとした。和葉は顔を背けてそれを避けた。
彼の動きが一瞬止まる。けれど何事もなかったように身を起こし、「和葉、もう少しだけ待っててくれ」とだけ言った。
ドアの閉まる音はごく小さかったのに、重い槌のように和葉の胸を打ちのめした。
待つ?
いや……もう、待つつもりなんてない。
和葉は点滴の針を引き抜き、痛む体を引きずって退院の手続きへ向かった。
産婦人科病棟の前を通りかかったとき、暁人の声が聞こえてきた。
「ゆっくりな。段差に気をつけて」
聞き慣れないほど優しい声だった。
「赤ちゃんは順調に育ってるって、先生も言ってたぞ」
「星山社長、ほら、聞いてみて……」
舞来の弾んだ声が続く。
「今、お腹を蹴ったんです!」
「どれどれ」
暁人の声には笑みがにじんでいた。
「こんなに元気なら、きっと丈夫な子になるな」
「もう名前まで考えてるんですか?」
「もちろん」
暁人は穏やかに言った。
「いくつか候補はあるよ。顔を見てから決めたいと思ってる」
和葉は冷たい壁にもたれかかり、爪が食い込むほど手のひらを強く握りしめた。
5年前のあの雨の夜を思い出す。全身ずぶ濡れで和葉の家の前に立ち尽くした暁人は、血がにじみそうなほど目を赤くしていた。
「和葉、子どもができないならそれでいい。俺はお前さえいればいいんだ!
本当だ。子どもなんて好きじゃない」
それが今、暁人は別の女の前にひざまずき、期待に満ちた目で胎動に耳を澄ませている。
名前まで決めて……
暁人。子どもが好きだったのなら、どうしてあのとき私を選んだの……?
どうして、私じゃなきゃ駄目だなんて言ったの?
どうして……私を騙したの?
和葉は踵を返した。こぼれた涙が磨き上げられた床に落ち、音もなく砕け散った。
タクシーの中で、和葉は両親に電話をかけた。
「お父さん、お母さん。私、そっちに行こうと思うの」
電話の向こうで、両親はひどく驚いた様子だった。
「どうしたの?暁人くんとうまくいってたんじゃないの?まさか、何かひどいことをされたの?」
和葉は言葉に詰まった。
「ううん……ただ、もう愛してないだけ」
和葉は静かに付け加えた。
「だから、綺麗に終わりにしたいの」
電話を切ると、タクシーは役所の前で止まった。
「国外転出の手続きをお願いします」
和葉は窓口で必要書類を差し出した。
職員は内容を確認しながら尋ねる。
「転出日はこの日付でよろしいですか?」
「はい」
和葉は静かにうなずいた。
これで、国内の住民票からは住所がなくなる。
けれど戸籍まで消えるわけではない。ただ、ここで暮らしていた自分の生活に、ひとつ区切りをつけたような気がした。
これから先、この街に和葉という人間はもういない。
暁人、あなたの望みどおりにしてあげる。
私はあなたたち「家族3人」の世界から、跡形もなく消えるから。
第2話
静まり返ったフロアに、職員がキーボードを叩く音だけがやけに大きく響いていた。
しばらくして、職員が書類を確認しながら顔を上げる。
「お手続きは以上です。転出日以降は、国内の住民票から住所が抜ける形になります」
和葉は返された書類を受け取り、静かにうなずき、その場をあとにした。
家に戻ると、クローゼットを開けて、ひとつずつ荷物を片づけ始めた。
1枚取り出すたびに、古い傷口を無理やりこじ開けるようだった。
このシャツは、暁人の誕生日に贈ったもの。これを着た彼に連れられて、山頂まで日の出を見に行った。
あのマフラーは、夜更けまで起きて編んだもの。これを巻いているとお前の匂いがする、と彼はいつも言っていた。
引き出しには、期限切れのコンサートチケットが2枚眠っている。あの日は大雨で、ふたりはソファに寄り添い、一晩中レコードを聴いて過ごしたのだった。
手はかすかに震えていた。それでも和葉は迷わず、それらをすべてゴミ袋に放り込んだ。
日が暮れかけたころ、最後のゴミ袋を引きずって玄関へ向かうと、ドアの外から聞き慣れた足音がした。
ドアが開き、大きなお腹の舞来を支えるようにして、暁人が立っていた。
「ふふ、あとで絶対来てくださいね」
舞来は甘ったるく微笑むと、和葉に意味ありげな視線を向け、そのままのんびりとゲストルームへ歩いていった。
「和葉」
暁人は数歩近づき、声をひそめた。
「舞来はもうすぐ臨月だ。医者から、そばに誰かついていないと危ないって言われてる。だから……しばらく彼女と同じ部屋で寝て、様子を見ようと思う。
でも安心してくれ」
暁人は慌てて付け加えた。
「彼女とは、何もしないから」
暁人は、泣いてわめかれる覚悟をしていた。なだめる言葉まで、頭の中で何度も練習してあった。ところが意外にも、和葉はただ静かにうなずいただけだった。
「好きにすればいいわ」
暁人は虚を突かれたようだったが、すぐに安堵の息をついた。口元には満足げな笑みさえ浮かんでいる。
「あと1か月の辛抱だからな」
和葉は答えず、そのまま寝室へ向かった。
辛抱?
もう、辛抱なんてしない。
その夜のうちに、暁人は自分の服や身の回りの物をすべてゲストルームへ運び込んだ。
ドアにもたれながら、行き来する彼の背中を眺めていると、和葉にはふと、彼が自分の人生から少しずつこぼれ落ちていくように思えた。
夜も更けたころ、不意にドアをノックする音がした。
開けると、お腹を突き出すようにして舞来が立っていた。勝ち誇ったような色を隠そうともしていない。
「和葉さん、星山社長が買ってくれた妊娠線ケアのオイル、持ってくるの忘れちゃって。あとで塗ってくれるって言うから、取りに来たんです」
和葉の心臓が、ずきりと痛んだ。
舞来はただ子どもを産ませるための存在にすぎない。暁人はそう言っていたはずだ。
それなのに、どうして妊娠線のケアまで、彼自身の手でしてやるのだろう。
和葉は引き出しからオイルの瓶を取り出した。手渡すとき、指先がかすかに震えていた。
舞来はオイルを受け取っても、すぐには立ち去らなかった。和葉を頭のてっぺんから爪先まで、ねめ回すように見つめた。
「……星山社長と結婚して5年、子ども一人できなかったのに、私はたった一度で妊娠したんですよ。少しは引け目を感じないんですか?」
和葉は静かに見返した。
「その子がどうやってできたか、あなたが一番よく知ってるでしょう」
「だから何だっていうんです?」
舞来は鼻で笑った。
「あなたたち夫婦の行為に使った避妊具から盗んだんだとしても、今の私は星山家のたったひとりの跡継ぎを身ごもってるんです。それに比べて、あなたには何もないですよ?」
彼女は一歩踏み出し、声を落とした。
「ねえ、知ってます?私、あなたのそのすました顔が一番嫌いだったんですよ。援助してもらうたびに、施しを受けてる気分でした。でも、やっとあなたを足元に踏みつけてやれた。この子が生まれたら、あなたは一生私に勝てないんですもの」
これ以上、戯言に付き合うつもりはなかった。和葉がドアを閉めようとしたそのとき、舞来がさっと手を伸ばして隙間を押さえ、次の瞬間、勢いよく後ろへ倒れ込んだ。大げさな悲鳴が響き渡る。
「きゃあっ!」
和葉が状況をのみ込むより早く、暁人が駆け込んできて、床に倒れた舞来を抱き起こしていた。
「おい、和葉ッ!」
顔を上げた暁人の目には、信じられないものを見るような色が浮かんでいた。
「昼間、あと少し辛抱するって言ったじゃないか!」
「私は押してない」
和葉は冷静に言った。
「彼女が自分で倒れて、私のせいにしようとしてるのよ」
「お腹の子どもを危険にさらしてまで、お前を陥れるって?」
暁人は声を荒らげた。
「そんな話、お前は信じられるのか!?」
彼に怒鳴られたのは、これが初めてだった。
目の奥が熱くなる。それでも和葉は、意地を張るように顔を上げた。
「やってないわ。信じられないなら、廊下の防犯カメラを確認すればいい」
そう言って、舞来の腕を取ろうと手を伸ばした。
「いい加減にしろ!」
暁人は和葉を乱暴に突き飛ばした。
「これ以上、舞来をいじめるな!」
不意を突かれ、和葉の体は後ろへ倒れ込んだ。後頭部がドア枠に激しく打ちつけられる。
鋭い痛みが走り、生温かい血がこめかみを伝い落ちた。
けれど暁人は和葉に目もくれず、まだわざとらしくうめいてみせる舞来を抱き上げた。
「大丈夫だ。すぐに星山家の家庭医を呼ぶから!」
暁人はそのまま、舞来を抱いて廊下の奥へと消えていった。
床に座り込んだまま、和葉はふいに低く笑い出した。
胸の奥底から絞り出すようなその笑い声は、ひび割れて震え、こぼれ落ちる涙とともに、静まり返った廊下にいつまでも響いていた。
第3話
その夜、邸宅には一晩中煌々と明かりが灯っていた。
医師や看護師、使用人たちが慌ただしく行き来し、皆が舞来につきっきりだった。
和葉はベッドに横たわったままその騒がしさを聞いているうちに、3年前のことを思い出した。
包丁で少し指を切っただけなのに、暁人はまるで和葉が不治の病にでもかかったかのように取り乱し、夜中に家庭医を呼びつけたうえ、手当てまで自分でやると言って聞かなかった。
「ただのかすり傷よ?」
あのとき、和葉は苦笑するしかなかった。
けれど暁人は彼女の手を取り、傷口にそっと口づけた。
「いや。お前は、髪の毛1本だって欠けちゃいけないんだ」
あのときと同じ気遣いを、今の暁人は別の女に向けている。
和葉は寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。涙が布地を濡らしていく。それでも唇を噛みしめ、声だけは漏らさなかった。
そうして一晩じゅう泣き続け、空が白み始めたころ、和葉は心の中で静かに自分に言い聞かせた。涙が涸れたら、今度こそきっぱり手放そう、と。
翌朝、階下へ降りると、暁人がダイニングテーブルで根気よく舞来に朝食を食べさせていた。
「これ、どうしても食べられなくて……」
舞来が甘えた声を出す。
「あとひと口だけ。な?」
暁人の声には、和葉がよく知る甘やかすような響きがあった。
「お腹の子のためだからと思ってくれ」
和葉は無表情のまま、ふたりのそばを通り過ぎようとした。
顔を上げた暁人は、和葉の額にかさぶたになった傷があることにようやく気づき、慌てて立ち上がった。
「和葉、その額、どうしたんだ?」
和葉は皮肉げに口の端を上げた。
「あなたが突き飛ばしたんでしょ?」
暁人ははっとして、ようやく昨夜のことを思い出したらしい。その顔に後ろめたさがよぎる。
「あっ……悪かった。昨日は頭に血が上ってて……薬を塗ってやるよ」
和葉が断ろうとした矢先、舞来が口を挟んだ。
「この朝ごはん、どれもあまり食欲がわかなくて……和葉さんの作る長芋の雑炊がすごく美味しいって聞いたんですけど、作ってもらえませんか?」
暁人は明らかに言葉を失った。喉仏が上下する。
「和葉……」
やがて、彼は口を開いた。
「頼めないか」
見えない手に、心臓をきつく握りしめられたようだった。
長芋の雑炊……
その言葉は鈍い刃物のように、和葉の記憶を無理やり切り開いた。
暁人が会社を継いだばかりのころ、接待続きで胃を壊したことがあった。
そんな暁人を見ていられず、和葉は病院の栄養士に相談し、胃に負担のかからない食事の作り方を教わったのだ。
初めて作ったときは鍋の底を焦がしてしまい、塩辛すぎて苦みを感じるほどだった。それなのに彼はひと口も残さず平らげ、和葉を抱きしめて言った。
「これからは、俺にだけ作ってくれないか」
それから腕はどんどん上がったけれど、和葉は本当に、暁人のためだけに作り続けてきた。
それを今、暁人は別の女のために作れと言う。
和葉はふいに笑った。その口元には、言いようのない皮肉がにじんでいた。
誓いの言葉なんて、口にしたときはどれほど真剣でも、結局は風化していくものなのだ。
和葉は黙ってキッチンに入り、鍋にだしを張って火にかけた。温まったところでご飯を加え、刻んだ長芋を入れて弱火でゆっくり煮ていく。
立ち上る湯気に目がしみる。それでも涙は一滴もこぼれなかった。
やがて雑炊がほどよく煮え、やさしい香りがあたりに広がった。
和葉は器によそって舞来の前に置くと、そのまますぐに立ち去ろうとした。
「和葉……」
暁人が思わず呼び止めた。その声には、後ろめたさがにじんでいた。
だが舞来がすかさず彼の袖を引っ張る。
「星山社長、この雑炊、すっごく熱いですけど……」
暁人の意識はたちまちそちらへ移り、身をかがめて舞来の雑炊に息を吹きかけ始めた。
いや、いい。
暁人は心の中で自分に言い聞かせた。どうせ1か月後には和葉と再婚するんだ。そのときに、たっぷり埋め合わせをすればいい。
深夜。和葉がようやく眠りについたころ、寝室のドアが荒々しく蹴り開けられた。
目を開けると、暁人のボディーガードたちが戸口に立っていた。
「奥様、失礼いたします。社長のご指示で、病院までご同行願います」
何が起きたのかわからないうちに、和葉は両腕を抱えられ、ベッドから引きずり出された。
病院の廊下は、目に刺さるほど白かった。手術室の前に立つ暁人の顔は、恐ろしいほど険しく曇っていた。
和葉の姿を見ると、暁人は複雑な目を向けた。
「どうして雑炊に毒なんか入れた?」
和葉にはわけがわからなかった。
「……どういうこと?」
「何度も言っただろう。俺は舞来のことなんて好きじゃない」
暁人は怒りを押し殺した声で言った。
「子どもが生まれれば、俺たちは元に戻れるんだ。どうしてあと少し我慢できなかった?」
そこでようやく和葉は理解した。舞来が毒にあたり、彼は自分を疑っているのだ。
「……っ、私じゃない」
彼女の声が震えた。
「どうして彼女に何かあるたびに、私のせいだって決めつけるの?」
「当たり前だろ!今日、彼女がまともに口にしたのは、お前の作った雑炊だけなんだぞ!」
暁人が声を荒らげた。
「それでどうやってお前を信じろって言うんだ!」
胸を裂かれるような痛みに、和葉が口を開きかけたそのとき、エレベーターの扉が開き、暁人の両親が慌ただしく駆けつけてきた。
パンッ!
平手打ちが和葉の頬を張った。よろめいて後ずさった和葉の口の端から、血がにじむ。
「この恐ろしい女!」
暁人の母、星山美郷(ほしやま みさと)が金切り声を上げた。
「子どもが産めないだけならまだしも、うちの孫まで殺そうとするなんて!」
暁人の父も、怒りを隠しきれなかった。
「ここまで卑劣な真似をした以上、家のしきたりに従って、けじめをつけてもらう。仏間で正座させろ」
暁人は眉をひそめ、何か言いかけた。
「今回罰しなかったら、次はあなたの子を手にかけるかもしれないのよ!」
美郷が鋭く言い放つ。
暁人は黙り込んだ。苛立たしげに壁にもたれかかると、引きずられていく和葉を冷ややかな目で見送った。
その瞬間、和葉の胸は引き裂かれるように痛んだ。
第4話
仏間はしんと冷え切っていた。
和葉は畳の上で長時間正座させられ、膝から下はとうに痺れて感覚がなくなっている。
仏壇の灯明がかすかに揺れ、その奥に並ぶ先祖の位牌が、まるで無言のまま自分を責めているように見えた。
「毒なんて、入れてないのに……」
和葉はうわごとのように呟いた。こぼれた涙が床に落ちる。
過去の記憶が、次々と脳裏によみがえってきた。
大学時代、急性胃腸炎で入院したときは、暁人が3日間も授業をさぼってつきっきりで看病してくれた。
結婚してからは、生理痛がひどい日には、いつも温かい飲み物を用意してくれた。
包丁で指先をほんの少し切っただけでも、ひどく取り乱したものだった……
それなのに今、自分が暗闇と寒さを何より怖がると知りながら、暁人はこんな場所で一晩じゅう正座させておくのだ。
夜が明けるころ、ついに限界に達した。和葉は仏間の冷たい床に崩れ落ち、そのまま意識を手放した。
次に目を覚ますと、寝室のベッドに寝かされていて、額には冷たいタオルが載せられていた。
傍らに座っていた暁人は、和葉が目を開けたのに気づくと、すぐに身を乗り出した。
「和葉、気がついたか?まだ痛む?」
和葉は顔を背け、かすれた声で言った。
「私、あなたの子どもを殺そうとしたことになってるんでしょ。だったら、今さら何しに来たの?」
暁人の表情がこわばり、弁解するように答えた。
「それは……調べたらわかったんだ。舞来が自分で、傷んだ魚介類を食べてたらしい……」
和葉は鼻で笑った。
「はっ。私の作った雑炊しか口にしてないって、言ってたんじゃなかった?」
「あいつはわざとじゃないんだ」
暁人は眉を寄せて言った。
「妊婦は記憶が曖昧になることもあるらしくて……」
和葉は目を閉じた。これ以上聞きたくなかった。
舞来のやり口なら嫌というほどわかっている。稚拙だが、なぜか暁人にはてきめんに効くのだ。
けれど、嘘を暴く気にもなれなかった。どうせ暁人は信じないのだから。
黙り込んだ和葉を見て、暁人はますます罪悪感を募らせたらしい。それからの日々、彼はあの手この手で和葉の機嫌を取ろうとした。
限定モデルのバッグ、ハイジュエリー、オーダーメイドのドレス……ウォークインクローゼットは贈り物で埋め尽くされた。
そしてついには、気晴らしに豪華客船で開催されるオークションへ行こうと言い出した。
ところが和葉が車のドアを開けると、後部座席には舞来が座っていて、にっこりと甘い笑みを向けてきた。
「妊婦にも息抜きは必要だって医者が言うから、連れてきたんだ」
暁人が言い訳するように続けた。
和葉は何も言わず、黙って車に乗り込んだ。
客船内は、まばゆい光に包まれていた。
舞来が暁人の腕に手を絡めて姿を現した瞬間、会場中の視線がふたりに集まった。
「あれが星山社長の新しい愛人?もともとは苦学生だったって話よ……」
「玉の輿じゃない。子どもさえできれば、もう怖いものなしね」
「奥様のほうはお気の毒に。学生時代からずっと付き合って結婚して、星山社長、あんなに溺愛してたのに」
「しょーがないよ。子どもを産めないんだもの。それが何よりの罪ってことよ」
周囲からの陰口は、見えない刃のように和葉へ突き刺さった。それでも顔色ひとつ変えず、人垣の間をすり抜けていった。
オークションが始まると、暁人は和葉の機嫌を取るために来たことなど、すっかり忘れてしまったようだった。
出品物が現れるたびに、舞来が目を輝かせて暁人の袖を引くからだ。
「星山社長、これすごく綺麗……」
「星山社長、この花瓶、すっごく好きです!」
「星山社長、このモネの『睡蓮』、素敵ですね」
舞来が目をつけた宝石や骨董品を、暁人はひとつ残らず、金に糸目をつけず競り落としていった。しまいには、どこまで値が吊り上がろうと絶対に競り落とすと豪語してみせた。
それはオークションの場で示せる、最上級の寵愛だった。
オークションが終わり、暁人は支払いに向かった。
周囲の好奇の目にこれ以上さらされていたくなくて、和葉はひとりデッキへ出た。
海風がひんやりと肌を撫でる。足を止めたとたん、背後から舞来の甘ったるい声がした。
「和葉さーん、ひとりで夜風に当たってるんですか?」
和葉は振り返らなかった。
舞来は隣に並び、得意げに言った。
「さっき星山社長が落札してくれたネックレス、和葉さんが結婚式でつけていたのとまったく同じなんですよ。
私がつけたほうが似合うって、社長が言ってくれたんですけどね」
和葉の指先に、わずかに力がこもった。
舞来はなおも挑発を続ける。
「本当はお礼を言わなきゃいけないんですよね。和葉さんが子どもを産めない体じゃなかったら……」
言い終わらないうちに、海の上を突風が吹き抜けた。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げた瞬間、舞来はバランスを崩した。
とっさに和葉の手をつかんだ彼女は、そのまま和葉ごと海へ引きずり込んだ。
冷たい海水が、一瞬にして頭上まで呑み込んでくる。
泳げない和葉の鼻に海水がなだれ込み、息苦しさが全身を襲った。
朦朧とする意識の中で、救助隊員の切迫した声が聞こえた。
「今すぐ動かせるのは一人だけです!こちらの方は少し待てますが、もう一人は急がないと危険です!」
続いて、迷いのかけらもない暁人の声が響いた。
「じゃあ、舞来をお願いします!」
その瞬間、和葉の心は完全に凍りついた。もがくのをやめ、沈んでいく体に身を任せる。
耳の奥まで海水が流れ込んできても、心が砕ける音だけは、かき消せなかった。
……
救助隊がようやく和葉を引き上げたのは、明け方の5時だった。
「大丈夫ですか?聞こえますか!」
軽く頬を叩かれて目を開けると、東の空がうっすらと白み始めていた。
唇は紫色に変わり、体は勝手に震え続けている。それなのに、体の芯まで冷え切っていて、ぬくもりはひとかけらも感じられなかった。
「低体温症です。すぐに病院へ!このままだと、いつショック状態に陥ってもおかしくありません」
和葉はうなずくと、救急車の搬送によって星山傘下の病院へ向かった。
がらんとした廊下を、濡れそぼった体を引きずって歩いていく。すると角を曲がったところで、暁人の声が聞こえてきた。
「医師は全員、舞来の病室へ行ってくれ!今すぐだ!」
その声には、これまで聞いたこともないほどの焦りがにじんでいた。
和葉は壁にもたれ、医師たちが処置室へ駆け込んでいくのを見つめていた。
ほどなくして、担当医が出てきた。
「星山さん、菅沢舞来さんに今のところ命の危険はありません。ただ、高熱と脱水がかなりひどい状態です。妊娠中ですので、使える薬を慎重に選びながら、点滴と冷却で様子を見ています」
「……赤ちゃんは?」
暁人の声が張り詰める。
「現時点では大きな異常はありません。ただ、熱が続いていますので、もうしばらく注意して見ていく必要があります」
暁人が病室へ入ると、舞来は寒気に震えながら目を開けた。
「すみません……寒くて……」
看護師が毛布を掛け直したが、舞来の震えはなかなか収まらなかった。
やがて舞来は、暁人に向かって震える手を伸ばした。
「社長……少しだけ、抱きしめてもらえませんか?」
暁人が息を止める。
「体が冷たくて……あなたの肌に触れて、温めてもらいたいんです……」
舞来は涙を浮かべながら続けた。
「社長が愛してるのは和葉さんだって、わかってます……でも今、社長の子どもを身ごもってるのは私なんです。
和葉さんには知られません……今回だけです。私のためじゃなくてもいい。この子のために……お願いできますか?」
ドアの外に立ったまま、和葉は長い沈黙を聞いていた。
やがて、暁人がかすれた声で言った。
「……っ。全員、出てくれ」
医療スタッフが次々と部屋を出ていく。ドアはきちんと閉まらず、細い隙間が残された。
その隙間から、和葉は見た。ベッドの前に立った暁人が、長い指でシャツのボタンをひとつずつ外していくのを。
ためらいと戦うかのような、ひどくゆっくりとした手つきだった。
ベッドに横たわる舞来は頬を上気させ、目に涙を浮かべている。
シャツを脱ぎ、引き締まった上半身をあらわにした暁人は、ベッドのそばへ歩み寄ると、震える手で舞来の入院着のボタンを外し始めた。
ひとつ、ふたつ……
やがて素肌と素肌が重なり、ふたりの体はきつく抱き合った。
第5話
「ふぅ……」舞来が満ち足りたような吐息を漏らした。
「星山社長の体、あったかい……っ」
その瞬間、和葉の世界は音を立てて崩れ去った。
閉まりきらないドアの隙間の向こうで、ふたりが素肌のまま抱き合っていた。
暁人は舞来をきつく抱きしめていた。肌を重ね、体温を分け合うその姿は、まるで本物の夫婦のようだった。
ふと、ずっと昔のことを思い出した。暁人は、他人に触れられるのをひどく嫌う人だった。
一度、会社の女性アシスタントがうっかり暁人の手に触れたことがある。彼はすぐさま手を3回も洗いに行き、戻ってくるなり顔をしかめて言った。
「和葉、お前以外の人間に触られると、どうにも気味が悪いんだ」
それが今、舞来のためなら迷いなく服を脱ぎ、自らの肌で彼女を温めている。
口の中に血の味が広がるまで、和葉は唇をきつく噛みしめていた。
踵を返して救急外来で解熱剤を出してもらうと、ひとりで家に帰った。
その夜は、たくさんの夢を見た。
夢に出てくるのは、16歳の暁人ばかりだった。
放課後、校則で寄り道は禁止されていたのに、こっそりコンビニまで行って、和葉の好きなミルクティーを買ってきてくれた暁人。
バスケットコートの真ん中で「和葉、好きだ!」と叫んだ暁人。
雪の中でひざまずいて「結婚してくれないか」と言った暁人。
やがて16歳の暁人は16歳の和葉の手を引き、どんどん遠ざかっていく。そしてすべての思い出が、風に吹かれて散っていった。
……
暁人が帰ってきたのは、それから3日後のことだった。
リビングで目が合った瞬間、空気が凍りつく。
和葉が2階へ上がろうとすると、暁人がその手首をつかんだ。
「和葉、海に落ちたときのこと、ちゃんと説明させてくれ……」
「彼女を選んだのは、お腹に子どもがいるからでしょう」
和葉は静かに言葉を遮った。
「わかってる」
暁人は一瞬きょとんとしたが、すぐに安堵の息をついた。本当に気にしていないのだと思ったらしい。
彼は微笑んで、口調も軽くなった。
「わかってくれてるならよかった。そうだ、もうすぐ誕生日だろ。盛大にパーティーを開こう」
和葉が断ろうとしたときにはもう、彼は手を離し、電話で手配を始めていた。
誕生日パーティーの当日は、例年どおりの華やかさだった。
シャンデリアがきらめき、シャンパンタワーが光を弾き、招待客たちが次々とグラスを掲げて祝いの言葉を贈る。
けれど、暁人の心が和葉に向いていないのは明らかだった。
何度もスマホに目を落としては、しきりにメッセージを返していた。
考えるまでもない。舞来と、お腹の子のことが気がかりなのだ。
案の定、パーティーがまだ終わらないうちに、暁人が足早に近づいてきて耳打ちした。
「すまない、会社で急ぎの用ができた。先に抜けるよ」
和葉は何も言わず、去っていく背中をただ静かに見送った。
自分ももう帰ろうと立ち上がりかけたとき、スマホが震えた。
知らない番号からのメッセージだった。
【和葉さん、お誕生日おめでとうございます。でも残念ですけど、あなたの誕生日なんて、誰も本気で気にしてないみたいですね】
添付されていたのは、1枚の写真。
写っていたのは、「会社」へ向かったはずの暁人だった。場所は、別のパーティー会場。
今日は、舞来の誕生日でもあったのだ。
暁人が慌ただしく抜け出したのは、別の女の誕生日を祝うためだった。
【見に来てくださいよ】
舞来からのメッセージがまた届く。
【私のパーティー、すぐ隣の会場なんです。サプライズも用意してますから】
和葉はそのまま帰るつもりだった。なのに足が勝手に、隣の会場へ向かっていた。
ドアを押し開けた瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。
暁人がうつむき、舞来のお腹を優しく撫でている。その眼差しは、目に刺さるほど優しかった。
暁人の両親は、艶やかな大粒の真珠が連なるブレスレットを、舞来の手首につけようとしているところだった。
「舞来ちゃん、これはね、星山家のお嫁さんに代々受け継がれてきたものなの。星山家の子を身ごもって、いろいろ大変だったでしょう。
私たちにとって、星山家の嫁はあなたよ」
頭から冷水を浴びせられたように、和葉の全身が震えた。
忘れるはずがない。かつて和葉の手首にあった、あのブレスレットだ。
初めて暁人に連れられて星山家へ挨拶に行ったとき、義父母も同じように和葉の手を取り、優しく言ったのだ。
「和葉、これは星山家のお嫁さんに代々受け継がれてきたものなの。これからはあなたに持っていてもらいたいわ」
けれど、和葉に子どもが望めないと分かってから、義父母が以前のように笑いかけてくることはなくなった。
やがてブレスレットも、「家で保管しておきたいから」と遠回しに返却を求められた。
そのブレスレットが今、舞来の手首で静かに輝いていた。
和葉は立ち去りたかった。けれど足が根を張ったように、一歩も動かない。
そのとき、暁人がふいに顔を上げた。人波の向こうから、その視線がまっすぐ和葉の目を射抜いた。
第6話
暁人の顔色が一変し、弾かれたように立ち上がった。
「和葉ッ!」
和葉は身を翻して駆け出した。
「待ってくれ!」
追いかけてきた暁人が、廊下で和葉の手首をつかむ。
「話を聞いてくれ!」
「何を聞けっていうの?」
和葉は力いっぱい振りほどいた。声が詰まる。
「……私の誕生日を祝いながら、あなたの子の母親の誕生日も祝ってたことの言い訳?」
和葉は身を翻して階段を駆け下りた。暁人がすぐあとを追ってくる。
夜の闇の中、ふたりは前後して車道へ飛び出した。
「和葉、違う!」
暁人が再び彼女をつかんだ。
「お前が思ってるようなことじゃないんだ!」
そのとき、目を射るようなヘッドライトが突然光った。
制御を失った乗用車が曲がり角から猛スピードで飛び出し、ふたりめがけて突っ込んでくる。
間一髪、暁人が和葉を思いきり突き飛ばした。
鈍い衝撃音とともに、耳をつんざくブレーキ音が響いた。
地面に投げ出された和葉は、暁人が撥ね飛ばされ、数メートル先の路面に叩きつけられるのを、ただ見ていることしかできなかった。
白いシャツが、みるみるうちに血に染まっていった。
暁人は緊急搬送され、和葉は血まみれのまま、病院の廊下に立ち尽くしていた。
「この疫病神!」
美郷の甲高い声が空気を切り裂き、平手が和葉の頬を激しく打った。
「自分が子どもを産めないだけならまだしも、今度はうちの息子まで殺す気なの!?」
暁人の父も怒りをあらわにした。
「出ていけ!二度と息子の前に顔を出すな!」
和葉はぎゅっと目を閉じ、背を向けて立ち去ろうとした。
ちょうどそのとき、看護師が慌ただしくドアを開けて出てきた。
「患者さんがずっと『和葉』と呼び続けていて、その方に会えないなら手術は受けないと言い張っているんです。どなたですか、すぐに中へお願いします!」
美郷は顔を真っ青にし、唇を強く噛み締めた。
「まったく、なんてことなの……!」
結局、ふたりは和葉を病室へ通すしかなかった。
ベッドの上の暁人は、紙のように白い顔をしていた。額には包帯が巻かれ、酸素マスクの下の呼吸はか細い。
やっとの思いで目を開け、和葉の姿をとらえた瞬間、彼の指がかすかに動いた。何かをつかもうとするように。
和葉が近づくと、その冷たい手に握られた。
「和葉……」
弱々しい声で、それでも彼は必死に弁明しようとした。
「舞来の誕生日パーティーを開いたのは……切迫早産の危機だったんだ。医者が……気持ちが落ち着けば、子どもも無事に生まれるって……」
咳き込むと、口の端から血がにじんだ。それでも和葉の手を放そうとしない。
「俺を……見捨てないでくれ。な?」
目を赤くしてそう言う彼の姿は、置いていかれるのを怖がる子どものようだった。
「本当に……お前がいないと、駄目なんだ……」
言い終えるなり、彼は意識を失った。心電図モニターが、けたたましい警告音を鳴らす。
医師や看護師が一斉に駆け込んできた。
「心停止です!除細動器の準備を!」
病室の隅に立ったまま、和葉は電気ショックのたびに大きく跳ね上がる暁人の体を見つめていた。
ふいに、何年も前のことを思い出した。盲腸で入院したとき、暁人はこうして病室の外で、一睡もせずに夜を明かしてくれた。
あのとき彼は、赤い目をして言ったのだ。
「和葉、お前に何かあったら、俺は生きていけない」
そして今も、彼は「お前がいないと駄目だ」と言う。
なのに、どうしてだろうか。もう彼には自分など必要ないのだと、そう思えてならないのは。
丸一昼夜に及ぶ処置の末、暁人はようやく峠を越えた。
それから数日、暁人はわがままな子どものように、和葉が病室を一歩出ることさえ許さなかった。
弱った手で和葉の服の裾を握りしめ、懇願するように言う。
「行かないでくれ」
和葉は黙ってベッドのそばに座り、青白いその顔を見つめていた。胸の内は、荒れ野のように空っぽだった。
かつては、暁人が自分のすべてだと思っていた。
けれど今の暁人の世界には、とっくに自分以外の人間がいる。
暁人が退院した日は、ちょうど月に一度、星山家で家族の食事会が開かれる日だった。
本家の屋敷には煌々と明かりが灯り、使用人たちが忙しく立ち働いている。和葉は食卓に着き、静かに箸を動かしていた。まるで部外者のように。
すると不意に、美郷が箸を置き、満面の笑みで切り出した。
「来月、暁人と舞来ちゃんの結婚式を挙げようと思うの」
和葉の箸が、宙で止まった。
美郷はなおも続けた。
「舞来ちゃんは、ずっと暁人のことを想ってくれてたのよ。少し手段は強引だったとはいえ、何といっても星山家の初孫を身ごもってるんだもの。この前の誕生日に、一度ウェディングドレスを着てみたいって言っていたんだから、叶えてあげなくちゃね」
和葉はゆっくりと視線を上げ、暁人を見た。
すぐ隣に座る彼は、和葉の手をきつく握りしめていた。けれど……何も言わなかった。
反論も、拒絶もない。
和葉の心は、完全に冷え切った。
彼はとっくに、この結婚のことを知っていたのだ。
そして、とっくにすべてを黙認していた。
和葉は静かに視線を戻し、口元にかすかな笑みを浮かべた。
第7話
すべてを諦め果てたような和葉の横顔を見ているうちに、暁人の胸に得体の知れない不安がこみ上げてきた。
暁人は焦燥に駆られるように椅子を蹴立てて立ち上がると、食事会が終わるのも待たずに和葉の手を引き、部屋へ連れていった。
「和葉!」
ドアを閉めるなり、暁人は急き立てられるように弁明を始めた。
「舞来は最近、かなり情緒不安定になっているんだ。精神的な不安定さはお腹の子にも影響すると医者から言われている。だから、刺激しないように機嫌を取って、無事に子どもを産ませたいだけなんだ……」
両手で和葉の頬を包み込み、ほとんど懇願するような声で言う。
「もう少しだけ我慢してくれ。すぐに終わるから。子どもが生まれたら彼女を追い出して、家族3人で仲良くやり直そう。な?」
家族3人?
焦りをにじませたその顔を見ていると、和葉の口から乾いた笑いが漏れた。
舞来を追い出す必要なんてない。
今度出ていくのは、自分のほうなのだから。
「……いいわ」
和葉は静かに言った。
「わかった」
暁人は肩の荷が下りたように、和葉をぎゅっと抱きしめた。声が弾んでいる。
「やっぱりな。和葉ならわかってくれると思っていたよ!」
結婚式の準備は、慌ただしく進められていった。
舞来は毎日浮き足立った様子で結婚指輪やドレスを選び、わざわざ式場のパンフレットを手に和葉の意見を聞きに来ることさえあった。
「和葉さん、この式場どう思います?」
甘い笑顔の奥に、見え透いた挑発の色が隠れている。
「ふふふ。星山社長が、最高のものを用意してくれるって」
和葉は淡々とパンフレットをめくった。
「どれも素敵ね」
手応えがないと悟った舞来は、悔しそうに唇を噛んだ。
最後まで決まらなかったのは、ウェディングドレスだけだった。
舞来は暁人の腕に絡みつき、甘えた声を出す。
「星山社長、私、和葉さんが着たあのドレスがいいんです。駄目ですか?」
そのドレスは、暁人が億単位の費用をかけ、世界的なトップデザイナーに一から仕立てさせたものだった。
ふたりの愛の確かな証だった。
暁人の顔色がかすかに変わり、反射的に断ろうとした。
ところが、和葉が先に口を開いた。
「いいわよ」
暁人は弾かれたように振り向いた。信じられないという顔だった。
「……和葉?」
和葉の表情は落ち着き払っていた。
「舞来にはもっと寛大になれって、あなたが言ったんじゃない」
和葉は立ち上がり、ウォークインクローゼットへ向かう。ふわりと軽い声が続いた。
「それに、たかがドレス一着のことじゃない。
拒む理由なんてないわ」
和葉は純白のウェディングドレスを取り出し、舞来に差し出した。
その場に立ち尽くしたまま、暁人は和葉の穏やかな表情を見つめていた。胸の奥から、これまで感じたこともないほどの深い恐怖がこみ上げてくる。
まるで……
彼女が少しずつ、自分の人生から消えていこうとしているような。
けれど暁人はすぐに、その不安を心の奥底へ押し込めた。和葉はあれほど自分を愛しているのだ。離れていくはずがない。
それに、あと1か月だけの辛抱だ。舞来が子どもを産みさえすれば、すべて終わる。和葉は待っていてくれるはずだ。
そんな暁人の胸の内など知る由もなく、舞来は大喜びでドレスを抱きしめると、その日のうちに暁人を引っ張って、式場でのリハーサルへ向かった。
待ちきれない様子で億単位のドレスに袖を通した舞来は、鏡の前でくるりと一回転し、得意げに暁人へ笑いかけた。
「星山社長、このドレス、似合ってます?」
暁人は複雑な目で、そのドレスを見つめた。
これは、自分と和葉のためのドレスだ。
かつて自分の手で彼女にベールをかけ、神父の前で誓ったはずだ。
「和葉、俺が生涯愛するのはお前ひとりだ」と。
それが今、別の女の体を包んでいる。
喉が締めつけられるようだった。暁人はどうにか笑みを作った。
「……ああ、似合ってる」
第8話
満足げに暁人の腕を取った舞来は、式の流れを確認するため、祭壇への階段を上がっていった。
だが、彼女が振り返ったその瞬間。
ビリッ!
ドレスのウエストラインが突然裂けた。次の瞬間、ドレス全体が雪崩のように崩れ落ちた。
悲鳴を上げた舞来は慌てて裾を押さえようとしたが、足を踏み外し、そのまま階段を転げ落ちていった。
「舞来ーッ!」
暁人は血相を変えて駆け寄り、彼女を抱き起こした。すぐさまジャケットを脱いで、露わになった体を包み込む。
だが、もう遅かった。リハーサル会場には記者たちが詰めかけていた。無数のフラッシュが嵐のように焚かれ、ほとんど裸同然の姿で転げ落ちた舞来は、一瞬で写真に収められた。
その日のうちに、【#星山グループの花嫁、公衆の面前で半裸に】【#菅沢舞来、挙式リハーサルで大失態】といったハッシュタグが、SNSのトレンド上位を独占した。
病院は、大混乱に陥っていた。
和葉がボディーガードに無理やり病室へ連れてこられたとき、暁人は窓辺に立っていた。指には煙草が挟まれ、灰皿には吸い殻が山のように積もっている。
振り返ったその目には、痛みの色が浮かんでいた。
「和葉、お前、どうかしてるんじゃないか?」
和葉は静かに見返した。
「何のこと?」
「ドレスのことだよ!」
暁人は煙草を乱暴に灰皿へ押しつけた。押し殺した怒りが、声の底でくすぶっている。
「本当にもう気にしてないんだと思ってた。なのに、ドレスに細工するなんて!」
和葉は一瞬ぽかんとして、それから笑った。
「は……私がやったと思ってるの?」
「お前以外に誰がいるんだ!」
暁人は和葉の手首を強くつかんだ。
「人前であんな恥をかかせるなんて、最低のやり方だろ!
しかも、舞来のお腹には俺の子がいるんだぞ。大量に出血して、赤ちゃんまで危ない状態なんだ。
舞来はお前と同じ珍しい血液型で、病院の血液だけじゃ足りない。お前、今すぐ献血してくれ」
激昂する彼の顔を見ていると、和葉はあまりの馬鹿馬鹿しさに可笑しくなった。
問いただしもせず、暁人は最初から自分の仕業だと決めつけている。
「私じゃない」と言いかけて、和葉は口をつぐんだ。どうせ断ったところで、力ずくで連れていかれるだけだ。
もうすぐ、ここを去る。今さら余計な波風は立てたくなかった。
和葉は目を伏せ、小さく言った。
「……ええ、いいわ。献血すればいいのね」
静まり返った病室での採血は、ひどく長く感じられた。
ベッドに横たわり、真っ赤な血がチューブを伝って流れ出していくのを見つめる。一滴、また一滴。これまで暁人に注いできた愛情までが、一緒に抜き取られていくようだった。
そこへ、暁人の両親が慌ただしく駆けつけてきた。病室に入るなり、和葉を指さして怒鳴りつける。
「この毒婦!ドレスに細工なんかして、舞来ちゃんに恥をかかせたうえに病院送りにするなんて!危うく母子ともに命を落とすところだったのよ、これで満足!?」
和葉は青ざめた顔で、弱々しく言った。
「ドレスには、触ってもいません……」
「黙れ!」
暁人の父が鋭く遮った。
「証拠は揃ってるんだ。まだ言い逃れする気か!」
美郷はきっぱりと命じた。
「誰か!この女を連れていって、星山家のしきたり通り、厳罰に処しなさい!」
暁人は傍らに立っていた。拳を握りしめる手が、かすかに震えている。けれど結局……
ひと言も発しなかった。
和葉は仏間の畳の上に正座させられていた。
背中に竹刀が振り下ろされるたび、鈍い痛みが走り、背中には腫れ上がった痕が幾重にも重なっていく。
和葉は唇をきつく噛みしめ、声だけは上げまいと必死にこらえた。
それでも、涙だけは止めることができなかった。
ふと、遠い日の記憶が蘇る。
初めて暁人に連れられて星山家の本家を訪れた日のことだった。
暁人は和葉の手をしっかりと握り、どこか誇らしげに両親へ告げたのだ。
「この子が武内(たけうち)和葉。俺が結婚したい人だ」
あのころ、義父母はどれほど優しくしてくれたことか。
それが今では、死ねばいいとさえ思っているのだろう。
最後の一撃が振り下ろされたとき、和葉はついに耐えきれず、意識を失った。
目を覚ますと、ゲストルームのベッドに寝かされていた。背中が焼けつくように痛む。
ベッドの脇に座っていた暁人が、和葉が目覚めたのを見て、険しい顔で口を開いた。
「子どもはなんとか無事だった。でも舞来はひどく情緒不安定になっている……俺が間違ってた。ひとつ屋根の下で波風立てずにやれるなんて、期待するべきじゃなかったんだ」
暁人は1枚の航空券を取り出し、枕元に置いた。
「父さんと母さんが、ほとぼりが冷めるまで海外に行っていてくれと言っている。舞来が出産を終えたら、戻ってくればいい」
その航空券を見つめて、和葉はふっと笑った。
明日は、暁人と舞来の結婚式だ。
きっと、騒ぎを起こされるのが怖くて、急いで自分を遠ざけたいのだろう。
和葉は何も言わず、手を伸ばして航空券を受け取った。
暁人はほっと息をつき、少しだけ口調を和らげた。
「とりあえず、ゆっくり休めよ。舞来が出産を終えたら、迎えに行くから」
和葉は彼に背を向けたまま、小さく「うん」とだけ答えた。
翌日、ネットやワイドショーは暁人と舞来の結婚式の生中継で持ちきりだった。
和葉の出国手続きも、ちょうど完了した。
彼女はスーツケースを引いて、空港のロビーに立ち、暁人から渡された航空券に目を落とした。
行き先はS国にある、静かで小さな町だった。
和葉はその航空券をふたつに裂き、ゴミ箱に捨てた。
そして、新しいチケットを買い直した。
片道切符。行き先は、D国。
搭乗を待つ間、空港の大型ビジョンには暁人の結婚式が映し出されていた。
隙のないスーツ姿の暁人。純白のドレスに身を包み、花が咲いたように笑う舞来。
ふいに、いくつもの光景がよみがえった。
16歳のあの日、バスケットコートで「和葉、好きだ!」と叫んだときの、真っ赤になった顔。
22歳の誕生日、雪の中に片膝をつき、指輪を差し出して「結婚してくれないか」と言ったときの、震える声。
25歳の結婚式、ベールを上げ、目を赤くして「和葉、俺が生涯愛するのはお前ひとりだ」と誓ったときに、頬を伝った涙。
和葉はかすかに微笑み、搭乗口へと歩き出した。もう、一度も振り返らなかった。
……
その時、式場の赤い絨毯の上に立つ暁人は、なぜか胸騒ぎが収まらなかった。
「それでは、新郎新婦による誓いのキスを」
暁人は眉をひそめ、冷ややかに問いただした。
「その演出はなしにすると言ったはずだが?」
司会者が答えるより早く、秘書が真っ青な顔で壇上に駆け上がり、彼の耳元で何事かを囁いた。
暁人の表情が、その場で凍りついた。
彼は秘書の襟首をつかみ上げた。声が震える。
「……今、なんて言った。もう一度言ってみろ!」
秘書は震える声で答えた。
「た、ただいま連絡がありまして……和葉様がお乗りになったS国行きの便が……墜落したと……乗員乗客178名……生存者は、いないそうです……」