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秘密の恋3年、彼は別の女と入籍した
私の名前は武内柚晴(たけうち ゆずは)。高柳敏昭(たかやなぎ としあき)とは、誰にも知られてはならない秘密の関係を3年続けている。 妊娠が分かった、まさにその日のこと。 敏昭を驚かせようと、私は内緒で彼の家を訪れていた。 けれど、最悪のタイミングだった。 敏昭が私の兄である武内越己(たけうち えつき)と一緒に帰宅した。 パニックになった私は、咄嗟にベッドの下へと身を潜めた。 やがて部屋の外から、兄の鋭く問い詰める声が響いてくる。 「ここが、お前が3年間も隠し続けてきた女の部屋か?美遥を一体なんだと思ってるんだ」 緊張のあまり、ぎゅっと拳を握りしめた。 私と敏昭が付き合っていることすら、兄はまだ知らない。 どうすればいいのかも分からず、ただ息を殺していたそのとき、敏昭の低く穏やかな笑い声が聞こえてきた。 「美遥はいい子だよ。俺たち、もう籍を入れたから」
チャプター (1)
第1話
私の名前は武内柚晴(たけうち ゆずは)。高柳敏昭(たかやなぎ としあき)とは、誰にも知られてはならない秘密の関係を3年続けている。
妊娠が分かった、まさにその日のこと。
敏昭を驚かせようと、私は内緒で彼の家を訪れていた。
けれど、最悪のタイミングだった。
敏昭が私の兄である武内越己(たけうち えつき)と一緒に帰宅した。
パニックになった私は、咄嗟にベッドの下へと身を潜めた。
やがて部屋の外から、兄の鋭く問い詰める声が響いてくる。
「ここが、お前が3年間も隠し続けてきた女の部屋か?美遥を一体なんだと思ってるんだ」
緊張のあまり、ぎゅっと拳を握りしめた。
私と敏昭が付き合っていることすら、兄はまだ知らない。
どうすればいいのかも分からず、ただ息を殺していたそのとき、敏昭の低く穏やかな笑い声が聞こえてきた。
「美遥はいい子だよ。俺たち、もう籍を入れたから」
第1話
ベッドの下に潜り込んだ私の体から、すうっと力が抜けていく。
笹谷美遥(ささや みはる)は、敏昭の亡くなった親友・笹谷徹也(ささや てつや)の妹だ。
私と敏昭が秘密の関係を続けてきた3年間、彼女はまるで悪夢のように、ずっと私たちにつきまとってきた。
1年前、敏昭に告白して振られた美遥は、逆上してビルから飛び降りた。
処置が早く九死に一生を得たものの、あの日、敏昭は私を彼女の病室へ連れて行き、冷たく言い放った。
「救急車を呼んでやるのは、これで6回目だ。そして最後にする。
もう二度と俺の前に現れるな。俺が愛しているのは柚晴だけだ」
そう告げると、敏昭は嫌悪感をあらわにして美遥のスマートフォンを奪い、自分に関するデータをすべて消去した。
警備員にも、彼女を完全にブラックリストへ登録するよう命じた。
「二度とお前に関わるつもりはない。死ぬ死ぬ詐欺も大概にしろ」
あのとき、美遥がどれほど泣き崩れて彼の名前を叫ぼうと、敏昭は一度も振り返らなかった。
それなのに、あれからどれほど経ったというのだろう。
敏昭が彼女と極秘入籍していたなんて。
だとしたら、1か月前に私を抱きしめて甘い愛を囁き、狂ったように体を求めてきたあの時間は、一体何だったのか。
*
次の瞬間、部屋のドアが開き、再び閉まった。
私は床の上で身を縮め、壁にぴったりと背中を押しつける。
やがて、兄の低く抑えた声が耳に届いた。
「美遥と結婚したとして、3年間隠してきたあの子はどうするつもりだ」
ぎゅっと拳を握りしめた。
敏昭がどう答えるのか、知りたくてたまらなかった。
数秒の沈黙のあと、敏昭が淡々と口を開く。
「徹也に、妹の面倒を見ると約束したからな。あいつ、2日前に屋上から飛び降りかけたんだ。俺が駆けつけるのが少しでも遅れていたら、衝動のまま本当に落ちていた。
重度のうつ病だと診断された。いつまた突発的な行動を起こすか分からない。俺がそばにいてやらないと駄目なんだ」
兄が深く息を吸い込む気配がした。
「お前、あの子を愛していたんじゃないのか」
その言葉を聞いた途端、胸をぎゅっと押しつぶされたように息苦しくなる。
耳元に、再び敏昭の冷たい声が響いた。
「美遥が妊娠した。子どもがいれば病状が安定すると医師にも言われている。籍も入れずに、あいつをシングルマザーにさせるわけにはいかない。
あの子には、俺の持つすべてを与えるつもりだ……結婚以外ならな」
「……そうするしかないか。美遥にはお前が必要だし、あの子には運が悪かったと諦めてもらうしかないな」
兄の言葉は、あまりに残酷だった。
二人の間に、重苦しい沈黙が流れる。
私の頬は、とうに涙でぐしゃぐしゃになっていた。
そうか。
1か月前、敏昭がSNSで交際を公表した「一般人の恋人」は、私ではなかった。
期待に胸を膨らませて握りしめていた、妊娠の診断書。
結局のところ、私はただの滑稽な道化にすぎなかった。
二人が部屋を出て行ったあと、私はベッドの下から這い出た。
乱暴に顔をこすり、涙を拭い去る。
敏昭が美遥と籍を入れたというのなら、私が身を引いて、二人の邪魔をしないようにするだけだ。
第2話
家に帰り着いた私は、部屋のキャビネットいっぱいに並ぶプレゼントを見つめた。
すべて敏昭から贈られたものだ。
かつては宝物のように大切にしていたのに、今となっては滑稽な皮肉でしかない。
目頭が熱くなり、それらを段ボール箱へと乱暴に詰め込んだ。
ちょうどゴミ捨て場へ持っていこうとしたその瞬間、スマートフォンが激しく鳴り響く。
画面に出た敏昭のアシスタントは、切迫した声で叫んだ。
「武内さん!高柳さんがワイヤーアクションの撮影中に事故に遭いました!頭を強打して意識不明の重体です……危険な状態なんです、すぐに来てください!」
危険な状態――その言葉を聞いた途端、頭の中が真っ白になった。
無我夢中で駆けつけ、気がついたときには病室の前に立っていた。
だが、足を踏み入れようとした瞬間、扉の向こうからアシスタントと敏昭の声が聞こえてきた。
「やっぱり高柳さんは頭がいいですね。結婚したことが遅かれ早かれ武内さんにバレると察して、いっそ記憶喪失のフリをするなんて。これなら武内さんも責めないどころか、おとなしく3年間待ってくれますよ」
敏昭が低く警告する。
「黙れ。二度とその話をするな。俺が愛しているのは柚晴だけだ。あと3年待って美遥の病状が落ち着いたら、記憶を取り戻したことにして柚晴と結婚する」
耳を疑った。
全身の震えが止まらず、喉から声すら出ない。
2年前、敏昭は肺に腫瘍が見つかったときも、手術が終わるまで隠し通していた。
あのとき、私は泣いて怒り、別れ話にまで発展した。
彼は「二度と嘘はつかない」と誓ったはずだった。
それなのに、これが2度目の嘘だった。
そのとき、背後から美遥の甲高い悲鳴が響いた。
彼女はいきなり廊下の床に膝をつくと、私の手を無理やり引き寄せ、自分のお腹へと何度も打ちつけ始めた。
「お願い、敏昭から私を引き離さないで!私の子どもを傷つけないで!お願いだから、この子だけは見逃して……!」
咄嗟に手を引き戻そうとしたが、美遥は狂気じみた力で手首を掴んで離さない。
これではまるで、私が彼女の腹を殴りつけているようにしか見えない。
引き寄せられた至近距離で、美遥の口元に勝ち誇った笑みが浮かんだ。
彼女は私の耳元で、低く囁いた。
「ねえ、今度は敏昭がどっちを選ぶと思う?」
青ざめる間もなく、病室のドアが勢いよく開いた。
敏昭の怒声が飛ぶ。
「柚晴、その手を離せ!」
次の瞬間、私は敏昭に激しく突き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
後頭部をコート掛けに強打し、目の前が真っ暗になる。
激痛に意識が飛びかけ、その場に崩れ落ちそうになりながらも必死に体を支える。痛む首筋に触れると、指先にべっとりと赤い血がついた。
「敏昭……っ」
かすれた声で助けを求めようとしたが、敏昭は私を一瞥すらしない。
彼は倒れ込む美遥のもとへ真っ先に駆け寄り、その体を抱きしめた。
「敏昭、お腹が痛い……」
美遥は彼の腕の中で小さくすすり泣く。
「あの人に突き飛ばされて……っ」
敏昭は美遥の背中を優しく撫でた。その声は、かつてないほど穏やかだった。
「怖がるな、俺がいる」
心臓が音を立てて底へと沈んでいく。
以前は、私だけに向けられていた温もり。
いま敏昭が必死に守っているのは、美遥だった。
立ち上がった彼が私を睨みつける瞳には、冷たい嫌悪しか宿っていない。
「柚晴、お前が俺の彼女を自称しているらしいが、兄貴の顔を立てて不問にしてやる。だが、美遥を傷つけるつもりなら絶対に許さない。
よく聞け。俺の妻は美遥ただ1人だ。二度と俺たちにつきまとうな」
血の気が引き、視界が涙で滲む。
1年前、美遥を冷たく切り捨てたあの光景と瓜二つだった。
ただ1つ違うのは、今回切り捨てられたのが私だということ。
そのとき、下腹部に鋭い痛みが走った。
針で刺されたような刺激は、瞬く間に腹を引き裂かれるような激痛へと変わる。
恐る恐る見下ろすと、淡い色のスカートに赤黒い染みが急速に広がっていた。
温かい血が、太ももの内側を伝って床へと滴り落ちていく――
第3話
視界がじわりと滲んでいく。
「敏昭……っ」
すがるように救いを求めた、その瞬間だった。
開いたエレベーターから、大勢の記者が一斉になだれ込んできた。
私の悲痛な呼びかけに、敏昭が足を止めて振り返る。その瞳に、一瞬だけ複雑な色がよぎった。
けれど、美遥がすかさず彼の腕にしがみつき、怯えたように声を震わせた。
「敏昭、ここから連れていって……怖いよ」
敏昭に迷いはなかった。
私を一瞥することもなく、美遥を抱きかかえて足早に立ち去っていく。
彼が本当に私を愛していたのか、もう分からなかった。
もし少しでも愛してくれていたのなら、私の青ざめた顔にも、血に染まったスカートにさえ気づかないはずがない。
無数のフラッシュが焚かれ、鋭い光が容赦なく目を射抜く。
私は壁を背にしてずるずると滑り落ちた。
視界が激しく回転を始める。
意識を手放す寸前、看護師が人を呼んで叫ぶ声が遠くで響いた。
*
次に目を覚ましたとき、鼻を突く消毒液の匂いに強烈な吐き気が込み上げた。
ベッドに横たわる私の下腹部は、ぽっかりと冷たく、空っぽになっている。
病室の片隅で、看護師が私の伝えた番号へ電話をかけていた。
流産した事実を伝えた瞬間、スピーカー越しに冷酷な嘲笑が漏れ聞こえる。
「柚晴は嘘つきなんですよ。あいつのことは最初から妹としか思っていませんし、指1本触れたことすらありません。俺の子を妊娠するはずがないでしょう。
頭がおかしいなら精神科で治療を受けさせてやってください。あいつの兄貴とはただの友人です、それだけだ。二度と電話してこないでくれ」
一方的に通話が切れた。
看護師はいたたまれない表情で、私に同情の視線を向けている。
胸の奥を激痛が突き刺し、息が詰まった。
だが、それだけでは終わらなかった。
敏昭は、私が美遥へ危害を加えるのを警戒し、あらかじめ兄を呼び出していた。
病室のドアが乱暴に開け放たれた。入ってきたのは越己だった。
私の実の兄。
去年、私が初めて手にしたアルバイト代で買ってあげた上着を着ており、その襟元にはまだ雨粒が残っている。
部屋に入るなり、兄は私をじっと見下ろした。
シーツの血痕から私の青白い顔へと視線を走らせた。
次の瞬間。
乾いた破裂音が病室に響いた。
激しい平手打ちを食らい、私の体はベッドの上へ横ざまに吹き飛ぶ。
瞬く間に頬が熱く腫れ上がり、耳の奥でキーンと不快な耳鳴りが走った。
「お前みたいな恥知らずな妹を持った覚えはない」
兄は感情を押し殺すように、低く唸った。
「敏昭と美遥はもう籍を入れたんだぞ。それなのに2人の邪魔をするなんて、一体何を考えてるんだ。徹也が俺たちを救うために命を落としたと知っていながら、あいつに顔向けできるのか!」
手の甲で口元の血を拭いながら、私は怒りに震える兄を見つめた。
目の前にいる人物が、まるで知らない赤の他人のように思えた。
1年前、私が膝を擦りむいたときは、背負って2キロも離れた病院まで走ってくれた。
途中で心配のあまり涙までこぼしていた優しい兄が、いま私を殴りつける瞬間は、瞬き1つしなかった。
「お兄ちゃん……私、流産したの。敏昭の子だったんだよ……」
かすれた声で、なんとか言葉を絞り出す。
「黙れ!」
兄は怒鳴りつけた。
「敏昭はお前の体に指1本触れてないって言ってるんだ!どこの誰とよろしくやってできたかも分からないガキを、あいつになすりつけるんじゃない!」
――誰の子とも分からないガキ。
その残酷な言葉に、全身の血が凍りついた。
完全に声を失う。
4年前、兄と敏昭が徹也の家で食事をしていたとき、不慮の火災が発生した。
徹也は身を挺して2人を救い出したが、力尽きて命を落とした。
息を引き取る間際、唯一の肉親である妹の美遥を頼むと言い残して。
けれどこの数年、美遥は敏昭につきまとうだけでなく、裏で兄のことも召使いのようにこき使っていた。
徹也を死なせてしまった罪悪感から、2人は文句1つ言わずに美遥へ従い続けてきたのだ。
いつの間にか、2人は私の知らない人間へと成り果てていた。
私が1人だけで出席した大学の卒業式。
急性胃腸炎の激痛に耐えかねて救急外来へ向かった夜。
あのときも、兄は美遥のわがままに付き合って不在だった。
昔の兄なら、妹を泣かせた敏昭の胸ぐらを掴んで殴り込みに行ってくれたはずだ。
それなのに今の兄は、私の言葉に耳を貸そうともせず、嘘つきだと決めつけて殴りかかってくる。
どうして、こんなことになってしまったのか。
兄の怒声が静まり返ると、病室の外から向けられていた看護師たちの視線は、一転して好奇と詮索、そして冷ややかな蔑みへと変わっていった。
まるで私が、略奪を企てて自爆した、浅ましい泥棒猫であるかのように。
第4話
兄は苛立ちを隠そうともせず、冷たく言い放った。
「荷物をまとめろ。実家に帰るぞ。敏昭と美遥の結婚式が終わるまで、戻ってくるな」
実家、という言葉を聞いた瞬間、全身の震えが止まらなくなった。
私たちの実家は、辺鄙な離島の漁村にある。
祖父母が勝手に決めた縁談を、兄が知らないはずはない。
相手は地元の資産家、瀬川(せがわ)家の息子だ。今にも息を引き取りそうな病弱な男のもとへ嫁がされ、死ぬまで介護させられる――そんな残酷な話だった。
流産したばかりの体を押して、私は兄の前に膝をついた。冷たい床に額を擦りつけ、必死にすがりつく。
「お願い、実家には帰りたくない……!もう敏昭のことは諦めるから、ここにいさせて。ポートフォリオを提出して、バークリア大学の合格通知が届いたらすぐに海外へ行くから。2人の結婚式なんて絶対に邪魔しないから……!」
兄の瞳に、わずかな後ろめたさがよぎる。だが、口から出たのは冷徹な言葉だった。
「その話はとっくに終わっただろ。いつまで引きずっているつもりだ。
それに、敏昭と話し合って決めた。お前のポートフォリオは美遥の名義でバークリア大学へ送って、すでに合格枠を押さえてある。美遥はこっちの大学を休学したばかりだ。出産が終わったら留学させる。余計なトラブルを防ぐためにも、お前はもう留学など諦めろ」
全身が凍りついた。涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「徹也に借りがあるのはあんたたちでしょ!私じゃない!どうして私の未来を奪って恩返しするのよ!」
兄の表情に、あからさまなうっとうしさが滲んだ。
「いつからそんな身勝手になったんだ。徹也が命がけで遺した妹は美遥1人なんだぞ。あいつを助けて何が悪い。チケットはもう手配した。明日、島へ帰れ」
私は床へ何度も額を打ちつけた。
「絶対に嫌!お願いだから……瀬川家のあの人はもう死にかけてるのよ!そんなところに嫁がせて私の一生を台無しにする気!?私、お兄ちゃんの実の妹なんだよ!」
「それもお前が美遥に償うためだ!」
兄は私の胸ぐらを乱暴に掴み、強引に引き起こした。
「誰が敏昭との間に割り込めと言った!」
「割り込んでなんかいない!」
再び鋭い平手打ちが飛んできた。
「まだ口答えする気か!」
必死に抵抗する私を、兄は力任せにアパートへと連れ戻した。
逃げ出せないよう私を自室へ閉じ込め、外から鍵をかける。
どれだけ扉を叩いても、喉が張り裂けるほど叫んでも、額を打ちつけても。
私を島へ送り返すという兄の決意を、揺るがすことはできなかった。
私は力なく床へ崩れ落ちた。
廊下の足音が遠ざかっていく。
額の傷から流れた血が鼻筋を伝い、涙と混ざり合って顎から滴り落ちる。
ここは、3年間暮らしてきた私の部屋だ。
ベッド脇のサイドテーブルには、兄と敏昭と3人で撮った写真が飾られている。
2人の真ん中で、まるで宝物のように守られて笑う私。
あんなに私を愛してくれた2人が、どうして美遥のところへ行ってしまったのか。
私は声が枯れ果てるまで泣き続けた。
やがて意識が途切れ、泥のような眠りに落ちていく。
夢の中で、私は18歳の誕生日に戻っていた。
兄は1年かけて小遣いを貯め、ネックレスをプレゼントしてくれた。
敏昭は部活を抜け出し、学校を飛び出すと、走ってケーキを買いに行ってくれた。
ろうそくの灯りに照らされながら、2人が音痴なバースデーソングを歌った。
下手くそな歌声がただ嬉しくて、温かい幸せに満たされていた。
*
真夜中、頬に激痛が走り、衝撃で目を覚ました。
頭が割れそうに痛み、全身が火の塊のように熱い。
高熱が出ている。
かつての兄は、誰よりも私を可愛がってくれた。
壊れ物を扱うように、大切にしてくれたのに。
いま目の前にいる兄は違った。
高熱に喘ぐ私の苦しみに目を向けようともせず、嫌悪感をあらわにして怒鳴りつけた。
「自分が何をしたか、よく見ろ!」
目の前に突きつけられたスマートフォンの画面。
そこに映し出された映像には、あの日、火をつけて徹也を死なせた犯人の姿があった。
――それは、私だった。
けれど、私は何もしていないのに。
第5話
「私じゃない……っ」
声を絞り出した瞬間、喉を引き裂くような痛みが走った。
だが兄は構わず、血走った目で私の肩を乱暴に揺さぶる。
「徹也を殺したのがお前なら、残りの人生すべて美遥に償え!」
「お兄ちゃん、お願いだから話を聞いて……あの動画は偽物なの……!」
すがる思いで兄の袖を握りしめた。
「まだ見苦しく言い訳する気か!」
兄は私をベッドへと手荒に突き飛ばした。
サイドテーブルの角に後頭部を強打し、目の前で火花が散る。
だが兄は怪我の心配をするどころか、倒れ込む私の腕を掴み、外へと引きずり出した。
無理やり車に押し込まれ、高熱と寒気で全身がガタガタと震え続ける。意識が朦朧として、どこへ向かっているのかも分からなかった。
窓の外の街灯は次第にまばらになり、やがて視界は山道を取り囲む暗い森の影だけになった。
車が止まったのは霊園だった。
私は荷物のように車から引きずり降ろされ、笹谷家の墓前に放り出される。
墓石の傍らには、すでに敏昭と美遥が立っていた。
冷たい夜風が容赦なく吹きつけ、体の芯まで凍えていく。
砂利の上に打ちつけられた両膝が激しく痛む。
顔を上げると、黒いコートを羽織った敏昭が、美遥の腰を抱き寄せてぴったりと寄り添っていた。
地面にへたり込む私を見下ろす敏昭の瞳には、何の感情も浮かんでいない。
「柚晴」
ようやく開かれた敏昭の口から、夜風よりも冷たい声が降ってきた。
「心優しいやつだと信じていた。だが、美遥から俺を奪うために放火なんて真似をするとはな。心底失望したよ」
「火なんて……つけてない……」
私は砂利に手をついたまま、必死に敏昭を見上げた。
彼がこれほど冷酷な目で私を睨みつけたのは、出会ってから初めてだった。
彼も兄と同じだ。
私が徹也を殺した犯人だと、端から決めつけている。
何年もの歳月を共に過ごしてきたのに。
この2人には、私へのわずかな信用の欠片すら残っていなかった。
生きる気力を失った私は、兄の力任せに、美遥の前に無理やり膝をつかされる。
兄のかすれた怒声が頭上から響いた。
「徹也と美遥に合わせる顔があるのか!早く2人に土下座して謝れ!」
敏昭の瞳に、あからさまな嫌悪が満ちる。
「事故だと思っていた火災が、まさかお前の仕業だったとはな。警察に通報する。自分の罪はすべて刑務所で償え」
――警察に通報する。
その言葉を聞いた瞬間、美遥の顔から勝ち誇った笑みが消え、目に見えて動揺が走った。
美遥は慌てて敏昭の腕にしがみつく。
「敏昭、待って!いくらなんでも越己さんの実の妹なんだよ?前科がついたら柚晴さんの人生が終わっちゃう。あの火事はもう事故として処理されてるし、今さら蒸し返したらみんなが傷つくだけだよ。
それに、お腹に赤ちゃんがいるのに、警察で事情聴取を受けるなんて耐えられない……越己さんに家から追い出してもらうくらいにして、通報はやめよう?」
敏昭は美遥の頬に優しく口づけを落とした。
「お前はどこまでもお人好しだな」
その甘いやり取りを見せつけられ、胃の底から強烈な吐き気が込み上げた。
それなのに、目頭ばかりが熱く焼けるように痛む。
「……私の、負けだよ」
乾いた声で呟くと、兄が激怒して顔を歪めた。
「まだそんな態度を取る気か!いいだろう、今すぐ島の実家へ強制送還してやる。この先お前がどうなろうと、俺は一切関知しないからな!」
美遥がわざとらしく胸をなで下ろし、口元に薄笑いを浮かべた。
「越己さん、島へ行くには船が必要だよね。この時間だとフェリーはもう終わっているので、私が小型の貨物船を手配しておいたのよ。今夜のうちに出発できるの」
兄は力強く頷いた。
「こんな嫉妬に狂った化け物だと知っていれば、島から連れてくるんじゃなかった。親元を離れて祖父母にいびられていたのを、哀れんだ俺が馬鹿だったよ。死ねばいいんだ、お前なんて!」
実の兄から投げつけられた、決定的な呪詛。
「そうね。私は死ねばいいんだわ。お兄ちゃんたちの言う通り。私なんて、最初から誰にも愛される資格なんてなかった」
自嘲の笑みが口元からこぼれた。
それでも、止めどなく涙が頬を伝う。
その姿を見て、敏昭の瞳にかすかな動揺がよぎった。いまさらになって、私の尋常ではない青白さに気づいたように。
「……お前、顔色が……体調でも悪いのか?」
第6話
胸の奥がツンと痛み、何かを言おうと唇を開いた。
けれどその瞬間、美遥が敏昭の手を引いた。
「敏昭、ちょっと気分が悪くなっちゃって……」
敏昭の伸ばしかけた手が止まる。
彼は兄を振り返ると、美遥を抱き上げた。
「ここは任せる。美遥を冷やしたくない。先に連れて帰る」
言い残すと、敏昭は一度も振り返らずに立ち去った。
その背中は霊園の山道の先へと消えていく。
美遥は敏昭の肩に顔を寄せながら、首だけを巡らせて私を見た。声を出さず、唇の動きだけで告げる。
――あんたの負け、と。
地面に膝をついたまま、私は遠ざかっていく車のテールランプをただ眺めていた。
胸の奥に残っていた敏昭へのわずかな情も、完全に消え失せた。
魂が抜けたように呆然とする私を、兄は港の貨物船へと無理やり連れて行った。
埠頭の夜風は強く、薄手のズボンが冷えた肌に張りつく。
高熱のせいで立っていることすらすでにおぼつかない。
兄が私の背中を乱暴に小突いた。
「早く乗れ。向こうに着いたら迎えがいるから」
もつれる足でタラップを上がる。
兄は岸に戻ると、振り返ることもなく車へと歩いていった。
そのとき、甲板から数人の船員が下卑た笑みを浮かべて現れた。
「へえ、いい女じゃねえか。今回は当たりだな」
「怖がらなくていいぜ?たっぷり可愛がってやれって頼まれてるんでな」
男たちが一斉に私の手足を押さえつけにかかる。
強烈な恐怖から、私はどこから湧いたのかも分からない力でその腕を振りほどき、無我夢中でタラップを駆け下りた。
遠ざかっていく兄の背中が見える。背後からは荒々しい足音が迫ってくる。
「お兄ちゃん……っ!」
足がもつれて派手に転倒し、擦りむいた膝から血が滲んだ。
だが兄は車に乗り込み、エンジン音を響かせて走り去ってしまう。私の悲鳴など届きもしない。
追っ手が急速に距離を詰めてくる。
私は埠頭の脇にある暗い植え込みの中へ必死に滑り込んだ。尖った枯れ枝が顔や腕を引き裂く。
両手で口を強く塞ぎ、呼吸を極限まで押し殺した。
ポケットからスマートフォンを取り出し、震える指で兄に発信する。
しかし、兄は容赦なく着信拒否を繰り返した。
敏昭にかけるしかない。
コール音が鳴り、通話が繋がった。
すぐ近くまで足音が迫る中、私は声を震わせて叫んだ。
「助けて、敏昭……助けて!」
けれど、電話口から返ってきたのは美遥の声だった。
勝ち誇ったような含み笑いが耳に届く。
「敏昭は助けになんか行かないよ。私に夜食を買いに下へ降りてるの。越己さんも敏昭も、もう私のもの。その男たちは私からのプレゼントだから、せいぜい可愛がってもらいなよ」
恐怖と絶望に震えながら、私は喉が張り裂けるほど叫んだ。
「敏昭に代わって!」
すると、端末の向こうで衣擦れの音がして、敏昭の冷え切った声が響いた。
私が言葉を発するより早く、嫌悪をあらわにした罵声が耳を打つ。
「文句があるなら俺に言え。美遥に八つ当たりするな。二度とかけてくるな。もう出るつもりはない。お前の声など、聞くだけで虫酸が走る」
一方的に通話が切れ、ツーツーと無機質な電子音だけが夜風に溶けていく。
直後、植え込みの外からガサリと激しい音がした。
「――見つけたぞ!」
節くれだった太い手が私の髪を掴み、物陰から力任せに引きずり出す。
「へっ、熱まで出してやがる」
「そんな体で無駄な抵抗すんじゃねえよ」
逃げ場のない絶望の中、私はぎゅっと目を閉じ、手のひらに爪を食い込ませた。